昭和56年9月16日 朝のご理解  入力者松本正宏


 御理解第三十七節 「生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ。」

 昨日は、富久信会でございましたから、皆さんもご参加になりましたように、昨日は秋の総会でもございましたから、皆疲れておりましたから、今日は、集まる人が少ないだろう。私も疲れておるから今日は、何人ででもよい、早く切り上げさせて頂いてと、思うておりましたら、いよいよ時間になったら、共励殿がいっぱい、いつもよりも多かったです。本当にありがたいなあというて、総会に参加しなかった方達の集まりもあって、いつもにない、素晴らしい共励会が出来ました。
 こっちが疲れておるから今日は早く寝ようと思うと神様は反対に修行さえて下さるような気がいたしますね。他にも、修行だなあと思わせて頂くような事がありましたが、今日の御理解にありますように、一生が修行じゃと。神様はいつも私共に修行を求めに求めておられる。だから修行する気持ちが少しでも欠けてまいりますと、かえって反対に修行させずにはおかんといったような起こってくるようですね。そして一生が修行じゃというようなことが結果においてははあ、あんなことは思うちゃいけんな、本当に修行の心というのはいつもなからないけんなという思いを強くたびたびにするのですけれども、その一生が修行と仰せられるのですから、それが辛い苦しいと言うことでは一生が術ないことになります。だから修行がありがたい。一段と信心を高めて行くということがありがたいという事にならなければいかんのですよね。
 昨日、最後に、文男先生が発表しておりましたが、まあ、私の話は皆さんが何十年間もう若くて椛目時代に椛目で修行して、当時から文男先生文男先生と先生といわれるような立場にずっとありますもんですから、どこに行ってもお話しを皆さんにさせてもらう。その、お話が上手というわけでもないのに、何とはなしにうけるわけで、うけるというか共感を呼ぶわけですね。皆の。それはどういうようなことであるか。それは昨日文男先生からの話から頂きますと、例えて呉服屋さんですから、まあ、春秋、またその合間にも展示会がございます。だからこの前の展示会でああいう信心でああいうおかげを頂いたからというてなら次ぎの展示会も同じ信心ではおかげになりませんと言っていますね。
 ね。この前の展示会にはあの程度の信心であんなにおかげを頂いたのですけれども、その展示会から展示会の合間にです、ね、いくらかは信心は進んでおらなければならない。また、その次ぎの展示会に取り組ませて頂く心つもりというものも変わってこなければならない。そういうわけで私の信心はいつも動いている。いつも少しでも、あらたな信心になっておる。その新たなところ、そこのところを聞いて頂くのですから、まあ皆に共感を呼ぶのではないだろうかという意味の話をしております。
 ね。ですから一生が修行である事が分かりますでしょう。もうこれだけのことを覚えたから、これで良いと言う事は決してありません。で私共はよりおかげを頂きたいという願いがある限りより本当の信心、を真実から真実を求めていくというが、本当の生き方を身に付けていくという修行。なるほど一生が修行だなということを思います。合楽では、こうして、昨日、秋期総会で最後に、久富正義総代が発表しておりました、皆さんに話しておりましたが、合楽のお話をね、親先生が神の叡智を持って説かれるとこういっております。あれは親先生の頭から出たお話じゃない。ちょっと思いついて話される話とは違う。神の叡智を持って説かれる話だからという事をいっておりましたが、私はそれこそそれどころではないと思いました。
 だからいかにそれが神の叡智を持ってとから、いうならば神様のお言葉であると例えば致しましても、それを皆が、頂いて下さらなければ値打ちはないのです。聞いておっただけではおかげにならんのです。これは、まあ、ここでは黙って治めるとか、まあ申しておりますね、子供が勉強せん。親が勉強しろ勉強しろというて、勉強されたのでは本当の勉強は身に付かないよと。本当に子供が、まちっと勉強してもらいたいと思うなら本気で御取次を頂きなさい、本気で祈りなさい。ね。いうたらいうただけ、いうならおかげが減るよというこれは私の持論です。ところがね、こうやって信心のお互い稽古をさせて頂いておりますと、この人がもうちょっと一押し信心を進めたら、この人がここんところを分かってくれたらとやっぱり思うのです。だからこれは、自分の人情だからと思うて、こう、まあ、思い直したら押さえたりしてまあいくのですけれども、本当におかげを頂きたい、おかげを頂きたいというて参ってくるから、そんならちょっとここへんのところば、一つ進めていったらおかげになるがと、言うて分からせたんじゃ大したことはないようですね。本人が翻然としてその気にならせてもらえる送り合わせを願うより他にないです。昨日もそれも私が、富久信会で感じたのですけれども、田主丸のむつやです。ね。最近大変おかげを頂いております。もうあちらの商店街の店主達が皆集まると、とにかく、最近は今までは、信ちゃん信ちゃんというて、まあ自分達よりも年も若いし色々指導やら教導やらしてあげるような人達が、最近はこれは信ちゃんの生き方のほうがほんなことというて、その、いうくらに、店の方も繁盛しておるし、ありかたというものがちょっと目だってきた。ね、毎日夫婦で参ってくるのです。必ず夫婦で参って来るのです。子供連れて。一人づつ子供を連れて参ってくるのです。それでも一生懸命ご祈念をして帰るのです。だからもうちょっと弾んで朝のご祈念に参るとか、参れんならば朝の御理解を夫婦で頂いて帰るとか、どうかすりゃよかのにと思うけれども、もう今日言おうか今日言おうかと。特に富久信会でも最近は何回もあちら商売人ばっかりの集いですから、毎日毎日おかげを頂いて大金を持っておるから、そういうおかげを受けておる人の話も皆に聞いてもらいたいから、今度の富久信会どん出てこんのと言いたいのだけれども私はいつも申しませんでしたが、昨日は、総会を頂いてある、やはり感じることがあった。疲れておったではないけれども、昨日はその富久信会に出てきて、発表しておるのを聞かせて頂いて、なるほど言うちゃならんなあと思いましたよ。
 ね。昨日も朝の内に夫婦で参ってみえます。参って参りましたら二人で自動車ですから、ここを出た途端に前の方にスッと入ってきた車が1108という番号であったという。それで家内の方が、その、お父さん、前走っておるのは1108とあるから一つ一つをね、ちょっと言い方は違いますけれども、空しくしていく、0にしていく。そうすれば必ず広がりに広がるというのだから今日の総会はまあ、家族中でおかげ頂こうじゃないかという話をしていた。ところが、お前は今日は京都から何時に人が来るようになっておるし、商品が入るようになっておるからお前だけなっとんぐらいならどんこんいかんじゃないかとまあ、言うて帰ったというのです。ね。ところが、午後から来るはずのが午前中に来たとこういう。荷物もついた。ね。それで何かこう、運送店関係の何かそういう働き、御用もあったらしい、事になっていったのだそうですけれども、昨日が祭日という事をコロッと忘れておった。それからもういよいよ総会に行かんならん、自分はここで信徒会の経理、会計の方を受けたまっておりますから、どうでもいかなならん。それで子供達だけを連れていこうとしよったら、あの、今日は、祭日じゃったばいと。運送店も今日はお休みだった。ならお前も一緒にというて、親子子供達も一緒に昨日の総会におかげを頂いたという話を昨日しておりました。
 素晴らしい事でしょう。ね。神様が翻然と分からせてもらう。例えばここを出た、1108はね、色んなこともあるけれども、こと神様の時にはこれは自分達を空しくせにゃならん。0にしていかにゃならん。そこから広がるおかげを頂かなきゃ本当なことじゃないと二人のものが翻然として、悟ったというのです。ね。だから昨日の富久信会にも出てきたとこういうのです。今まで最近富久信会にも大分ご無礼して、みえよりませんでした。それで、昨日みえて、私は、その、本人がその実感を語っておりましたから、本人から聞くともっと素晴らしいですけれども、私はそれを聞きながらそれを思うたです。なるほど言うことは入らんなあという事です。ね。神様がいわゆるものを言わんばかりに教えて下さると言う事は素晴らしいことだと。一つ一つをいうなら事、神様事と自分のお商売ならお商売の事を並べて考えた時にです、神様自分を空しくして神様のほうをとってさえいけば広がりに広がるおかげが頂けれるという事を夫婦の者が悟った。
 ね。そこで、なら、色々気付くところもあったり、また、うっかりしておって分からなかったところも、ね、また総会に出てみんなの話を聞いて大変おかげを頂いて、ね、おかげで夫婦親子で、総会にもおかげを頂けてそして本番のこの富久信会にもおかげを頂けたという話なんです。ね。だから例えばね、こればっかりはね、修行せよというて出来るもんでもない、ここにも修行生が沢山おりますけれども、お話はしておりますけれども、一人一人にあんたそげな事でというて修行したんでは続きません。もう本人が本気でその気になって修行に取り組もうという気になるともう本当にどういうところでも修行をさせて頂く材料があるです。しかも文男先生の話じゃないですけれども、ね、いうなら展示会から展示会までのあの時にはいうならああいう信心でおかげを頂いたから、今度もあの手で行けばよいという事はない。もう次ぎの展示会の時には少しでも信心が新たなもの、進んでおらなければおかげにならん。私の話を皆さんが聞いてくださって、まあ、おかげを頂いた、おかげを頂いたとみなさんから言われるのを、私の、いつも絶えず精進しておる信心から少しは新たなものが生まれておる、そこのところを聞いてもらうから、私の話が皆さんに喜んで下さるのだろうと言う意味の話を皆さんがしておりましたが、なるほど、こういう風にです神様の素晴らしい合楽での教導。神様の教導です、をその気になれば受ける事が出来る。同時にその修行というものは、私が昨日体験したようにはあ、今日は疲れておるけんはよやすもうと思うたら早く休まれない働きがある事は知っておってもやっぱり疲れておりますからそんな気になりましたら、昨日はやっぱりいつものように、普通に修行させて頂かねばならないような事が起こったりあったりしておるのです。ね。私が一生が修行だとと言う事は、少しでも本当な事、本当の新たな事が頂けれる、その新な信心こそが次ぎのおかげの把握というか、頂くという事になるのです。一生が修行というのを一生が苦労という風に思い間違えてはなりません。一生が修行である事がありがたいのだと、しかもこちらが迂闊にしておると神様がさせて下さる働きまでもが起こってくるという事。同時になら合楽では、こうやってお話は聞いて頂いておっても一人一人に私から見るとなら皆さんの場合でもここばこうしてちょっとここば改まったらとか、もうこの人が一押しすればという風に一人一人に感じます。だからそれを私が言うたからというて、皆さんのおかげになるのじゃない。そこを私は祈ります。祈るところで神様の働きがそこにあるのです。それで合楽の皆さんの場合は例えば総会なら総会に感じますように、この前の総会より今度の総会と内容が充実して生き生きとした、昨日などは、もう皆さんの素晴らしい話を大祭に向けての心つもりとか、修行と言うことを語られましたが、ね、本当に素晴らしい事だという風に思います。いわゆる育っていっておるのです。育っただけが新しいものです、育っただけが修行の内容なんです。なるほどこの生き方で修行をして頂くならばです、心の中に成る程、ね、この前の展示会の時と同じ信心と言ったような事ではもう次ぎの展示会にはおかげ頂けないといういわば思い込みというかそういう信心が分かってくる時にです、更に更に新たな信心を求めずにはおれない。その、新たな信心を求める事、その事が私は修行であり、またはこのことは一生成る程、修行させて頂きよるないよいよ有り難い勿体ない修行に入って行く事が出きるなと思います。
                                     どうぞ